 
 
 マルセイユの旧港の「ベルギー人の埠頭」と呼ばれる埠頭の中央に、一枚の青銅板が埋め込まれている。 「紀元前600年、ギリシァの船乗りたちが小アジアのフォカイアからやって来てマルセイユを建設。 西欧文化は、ここを発祥の地とする・・・・」と。
  
  フォカイアは、エーゲ海のキオス島の東、現在のトルコのイズミールあたりに、古代ギリシャ人が建てた植民地である。ペルシアの攻勢にあったフォカイアの人たちがその都市を捨ててそっくりこのマルセイユに避難して来たのである。
    
  マルセイユの旧港の「ベルギー人の埠頭」と呼ばれる埠頭の中央に、一枚の青銅板が埋め込まれている。 「紀元前600年、ギリシァの船乗りたちが小アジアのフォカイアからやって来てマルセイユを建設。 西欧文化は、ここを発祥の地とする・・・・」と。
  
  フォカイアは、エーゲ海のキオス島の東、現在のトルコのイズミールあたりに、古代ギリシャ人が建てた植民地である。ペルシアの攻勢にあったフォカイアの人たちがその都市を捨ててそっくりこのマルセイユに避難して来たのである。
 
	
 名作「風車小屋だより」の作家ドーテの故郷でもあるニームは、ランクドック最古の町。 その発祥は、紀元前6世紀ギリシャ人が植民する前から、ケルト人の大きな集落であった。その集落は「ネマウソスの泉―聖なる泉」を中心にできていた。ニームの名前も「ネマウソス」からきたものである。
  
  ローマが地中海世界で強国になりつつあった時、彼らローマ人はケルト人を蛮族とみなし、その地を「ガリア」と呼んだ。
  ガリアは深い森におおわれており、ガリア人は多くの部族に分かれて住んでいて、統一国家は形作られていなかった。
  ガリアの社会では、戦士を兼ねる貴族が権力を持ち、農民を支配していた。
  地中海沿岸の一部は、早くからローマに征服されて、「属州-プロウィンキア(プロヴァンスの語源)」となっていたが、カエサルのガリア征服によって、部族の統一が進み、ケルト文明とローマ文明の融合した「ガロ・ロマン文明」と呼ばれるフランス文明の基調を形作る。
  
  ニームは、交通の東西と北への分岐点にあるため、交易が活発に行なわれ、経済力をつけて行ったが、アウグストスの時代に大きく発展する。現在残る 円形闘技場・メゾン・カレ(神殿)など数々の遺跡は、この「ガロ・ロマン文明」の黄金時代(1~2世紀)のもの。
  
  名作「風車小屋だより」の作家ドーテの故郷でもあるニームは、ランクドック最古の町。 その発祥は、紀元前6世紀ギリシャ人が植民する前から、ケルト人の大きな集落であった。その集落は「ネマウソスの泉―聖なる泉」を中心にできていた。ニームの名前も「ネマウソス」からきたものである。
  
  ローマが地中海世界で強国になりつつあった時、彼らローマ人はケルト人を蛮族とみなし、その地を「ガリア」と呼んだ。
  ガリアは深い森におおわれており、ガリア人は多くの部族に分かれて住んでいて、統一国家は形作られていなかった。
  ガリアの社会では、戦士を兼ねる貴族が権力を持ち、農民を支配していた。
  地中海沿岸の一部は、早くからローマに征服されて、「属州-プロウィンキア(プロヴァンスの語源)」となっていたが、カエサルのガリア征服によって、部族の統一が進み、ケルト文明とローマ文明の融合した「ガロ・ロマン文明」と呼ばれるフランス文明の基調を形作る。
  
  ニームは、交通の東西と北への分岐点にあるため、交易が活発に行なわれ、経済力をつけて行ったが、アウグストスの時代に大きく発展する。現在残る 円形闘技場・メゾン・カレ(神殿)など数々の遺跡は、この「ガロ・ロマン文明」の黄金時代(1~2世紀)のもの。
  
    その後、西ゴート族(ゲルマン)の支配やサラセン人(アラブ)の侵略、ローマ教皇に異端視されたアルビジュワ派に市民が加担したことによって起こされた戦い、中世末期の宗教戦争と、度重なる戦いが都市の発展の阻害となった。
    しかし、交通の要地にあるため、商業活動は継続的に行なわれ、14~18世紀には、オリエント貿易と織物産業(16-17世紀公職を追放された多くの新教徒が起こした産業)で大きな都市として成長していく。
  
 
	
 ゴッホ好きの日本人にとって、アルルと言うとゴッホの画を思い出す人が多いが、アルルは、ローマ時代のすばらしい建物がいろいろと残っているところとしても有名である。
  
  古代のアルルは、地中海からローヌ川を20キロほどさかのぼった河港の町だった。 ガリアの内陸に通ずるローヌ川と地中海の水運がアルルで結ばれていた。
  
  ゴッホ好きの日本人にとって、アルルと言うとゴッホの画を思い出す人が多いが、アルルは、ローマ時代のすばらしい建物がいろいろと残っているところとしても有名である。
  
  古代のアルルは、地中海からローヌ川を20キロほどさかのぼった河港の町だった。 ガリアの内陸に通ずるローヌ川と地中海の水運がアルルで結ばれていた。
 
 	
 
	
 
	
  
	
 
		
 
 古代ローマの時代から使われた大西洋と地中海を結ぶ基幹ルートは、 大西洋側からボルドーを経て、ガロンヌ河を遡り、トゥールーズに至る。そこから、カルカソンヌまでは陸路を使う。カルカソンヌからは、オード川を地中海まで下るという方法だった。 しかし、 オード川は水量が乏しいため平底の小さな舟しか使えず、渇水期にはそれすらも通れないことが度々あって、かなり難儀な交易ルートだった。
  
  ここに運河を通すアイディアはローマ時代からあり、「ゲルマーニア」を書いたタキトウスが、2世紀初頃に、提案している。また、中世では、カール大帝が、家臣に命じて調査させた記録が残っている。
  
  この地方の塩税請負人総監で、スペインとの戦争時は御用商人を務めたピエール・リケが、初めて綿密な計算に基づいた具体的計画を練り上げ、長年関係者の説得に努力した結果、1666年10月、ルイ14世の承認を得ることが出来た。
  
  リケは60歳になっていたが、翌年から工事を始め、14年掛けて、ほぼ完成間近までこぎつけたが世を去った。後を、息子が引き継いで、6ヶ月後に完成させた。開通式は1681年5月15日だった。
  
  この運河は、トゥールーズから地中海岸の港町セートまでの全長240km。途中69ヶ所に水門を設けたもので、運河の最高地点は、海抜189m。
  この種の運河は、水門で船を上げるため大量の水が必要なため、リケは、カルカソンヌ北方の山間のいくつかの川をせき止め、貯水量700万トンの人造湖サン・フェレオルを造成し、トンネルで運河の最高地点に水を引いた。このトンネル工事は、当時の技術では誰もが不可能と思っていた。
  
  この運河の開通は、ボルドーを通じて北方市場に結びつき、予想以上の交易の活況を呈し、その後の南フランスの経済発展に大きく貢献するようになった。
  
  現在、この運河は、鉄道とトラックの普及によって、その使命を終えて、主に観光船が行き来している。1996年世界遺産。
 
	
古代ローマの時代から使われた大西洋と地中海を結ぶ基幹ルートは、 大西洋側からボルドーを経て、ガロンヌ河を遡り、トゥールーズに至る。そこから、カルカソンヌまでは陸路を使う。カルカソンヌからは、オード川を地中海まで下るという方法だった。 しかし、 オード川は水量が乏しいため平底の小さな舟しか使えず、渇水期にはそれすらも通れないことが度々あって、かなり難儀な交易ルートだった。
  
  ここに運河を通すアイディアはローマ時代からあり、「ゲルマーニア」を書いたタキトウスが、2世紀初頃に、提案している。また、中世では、カール大帝が、家臣に命じて調査させた記録が残っている。
  
  この地方の塩税請負人総監で、スペインとの戦争時は御用商人を務めたピエール・リケが、初めて綿密な計算に基づいた具体的計画を練り上げ、長年関係者の説得に努力した結果、1666年10月、ルイ14世の承認を得ることが出来た。
  
  リケは60歳になっていたが、翌年から工事を始め、14年掛けて、ほぼ完成間近までこぎつけたが世を去った。後を、息子が引き継いで、6ヶ月後に完成させた。開通式は1681年5月15日だった。
  
  この運河は、トゥールーズから地中海岸の港町セートまでの全長240km。途中69ヶ所に水門を設けたもので、運河の最高地点は、海抜189m。
  この種の運河は、水門で船を上げるため大量の水が必要なため、リケは、カルカソンヌ北方の山間のいくつかの川をせき止め、貯水量700万トンの人造湖サン・フェレオルを造成し、トンネルで運河の最高地点に水を引いた。このトンネル工事は、当時の技術では誰もが不可能と思っていた。
  
  この運河の開通は、ボルドーを通じて北方市場に結びつき、予想以上の交易の活況を呈し、その後の南フランスの経済発展に大きく貢献するようになった。
  
  現在、この運河は、鉄道とトラックの普及によって、その使命を終えて、主に観光船が行き来している。1996年世界遺産。
  
 
 ペルピニャンは、ルションの首都であるが、長い間カタロニアに属し、バルセロナに次ぐ第2の都市である。早くから古代ローマの所領だった。470年頃、ゴート族とアラン族の支配を受けた。712年、ムーア人に征服された。その76年後に、フランク王国のカール大帝と結んだスペイン人によってムーア人は撃退された。 その後、フランク王国の伯爵らが支配し、イスパニア辺境区と称した。後にバルセロナ伯領として独立した。
  
  カタルニャは、1137年、アラゴン王国と連合王国を発足させ、地中海貿易を独占して大繁栄した。 しかし、15世紀末のアラゴン王国とカスティリャ王国の合併とコロンブスによる新大陸到達は、カタルニャの繁栄に陰りをもたらした。
  カタルニャとカスティリアの対立は深まり、反カスティリアの高まりを期に、フランスが介入した。1640~59年、94~97年、1808~13年の3度にわたり、フランスはカタルニャに軍を派遣している。
  
  カタルニャの独自の文化発展には、フランスの影響が強く及んでいて、19世紀には、文化的・政治的自立をもとめる運動がカタルニャに起きた。1931年、アルフォンソ13世が亡命し、第2共和制が樹立されると、32年、カタルニャはスペイン共和国の枠内で独自の首長と議会を持つ権利を認められた。
  
  スペイン内乱(1936~39)に際しては、カタルニャは、フランコ将軍のひきいる国民戦線に対抗する共和派の拠点のひとつとなった。 しかし、勝利したフランコの体制(1939~75)のもとでは、カタルニャの自治は廃止され、カタルニャ語の使用も禁止されてしまった。
  
  民主化開始後の1977年、スペインの中央政府はカタルニャに対し限定的な自治を認め、カタルニャの歴史的な統治機構であるジェネラリタートの復興も認めた。
  
  ルション地方が、フランスというよりスペインという印象が強いのも不思議ではない。フレンチ・カタロニアのアイデンティティはこの地方の誇りで、赤と黄色のカタロニアの旗があちこちに掲げられ、村の広場では人々が厳かに民族舞踊サルターナを踊っている。多くの人は今もカタロニア語を母国語として話している。
  
  ここでは昔から平野全域にわたって、大量の果物や野菜が生産されている。この町の道路の片隅、あるいは木陰のある広場などでは、マイヨールの美しい彫刻を見ることができる。この彫刻家はこの町から南へ数キロ下った所に生まれ、一生をそこで過ごした。
  
  ペルピニャンは、ルションの首都であるが、長い間カタロニアに属し、バルセロナに次ぐ第2の都市である。早くから古代ローマの所領だった。470年頃、ゴート族とアラン族の支配を受けた。712年、ムーア人に征服された。その76年後に、フランク王国のカール大帝と結んだスペイン人によってムーア人は撃退された。 その後、フランク王国の伯爵らが支配し、イスパニア辺境区と称した。後にバルセロナ伯領として独立した。
  
  カタルニャは、1137年、アラゴン王国と連合王国を発足させ、地中海貿易を独占して大繁栄した。 しかし、15世紀末のアラゴン王国とカスティリャ王国の合併とコロンブスによる新大陸到達は、カタルニャの繁栄に陰りをもたらした。
  カタルニャとカスティリアの対立は深まり、反カスティリアの高まりを期に、フランスが介入した。1640~59年、94~97年、1808~13年の3度にわたり、フランスはカタルニャに軍を派遣している。
  
  カタルニャの独自の文化発展には、フランスの影響が強く及んでいて、19世紀には、文化的・政治的自立をもとめる運動がカタルニャに起きた。1931年、アルフォンソ13世が亡命し、第2共和制が樹立されると、32年、カタルニャはスペイン共和国の枠内で独自の首長と議会を持つ権利を認められた。
  
  スペイン内乱(1936~39)に際しては、カタルニャは、フランコ将軍のひきいる国民戦線に対抗する共和派の拠点のひとつとなった。 しかし、勝利したフランコの体制(1939~75)のもとでは、カタルニャの自治は廃止され、カタルニャ語の使用も禁止されてしまった。
  
  民主化開始後の1977年、スペインの中央政府はカタルニャに対し限定的な自治を認め、カタルニャの歴史的な統治機構であるジェネラリタートの復興も認めた。
  
  ルション地方が、フランスというよりスペインという印象が強いのも不思議ではない。フレンチ・カタロニアのアイデンティティはこの地方の誇りで、赤と黄色のカタロニアの旗があちこちに掲げられ、村の広場では人々が厳かに民族舞踊サルターナを踊っている。多くの人は今もカタロニア語を母国語として話している。
  
  ここでは昔から平野全域にわたって、大量の果物や野菜が生産されている。この町の道路の片隅、あるいは木陰のある広場などでは、マイヨールの美しい彫刻を見ることができる。この彫刻家はこの町から南へ数キロ下った所に生まれ、一生をそこで過ごした。
 
  	
