ナルボンヌから、カルカソンヌを経てボルドー方面に向かう道は、古代から重要視されてきたルートで、ミディ運河も、鉄道も、高速道路も、総てこの天与の通路を通っている。ここの高速道路(23号)には愛称が付いている。「二つの海」。言うまでもなく地中海と大西洋を結んでいるからである。
カルカソンヌは、古くからこの通路を押きえる軍事上の要衝だった。 近世には、アラゴン王国の領土が現在のフランスの地中海沿岸の一部にまで及んでいたため、フランス王国の最前線基地でもあった。
旧市街は「ラ・シテ」と呼ばれ、小高い丘の上にある。城壁は内外二重になっており、内城壁には29の、外城壁には17の高い塔が立っている。城壁の西側にはカルカソンヌ伯の本拠だった城塞もそびえている。まさに中世の城壁都市が、昔のままに保存されている。
内城壁北側は、ローマ時代に築かれたもの。南側は、ローマ時代の城壁を元にして、その上下に中世の城壁が付け加えられた。 13世紀にルイ9世とフィリップ3世によって行われた補修と増築によるものである。外城壁を新設したのもこれら2人の王である。
地中海岸に近いベジエから、この辺り一帯に掛けての領主のベジエ・カルカソンヌ伯・トランカベル家が君臨したのは、1084年から1209年までで、カルカソンヌの全盛時代でもある。トランカベル家は、領民のために、アルビジョワ十字軍と戦い滅亡してしまう。
フランスで最も美しい中世の城壁と言われるこの歴史的文化財が保存されるきっかけは、19世紀に起こったロマン主義思想である。文学、音楽、美術、演劇、建築などの分野で古いものが見直され、古代・中世の建造物を保存しょうという動きが起こった。
「カルメン」の作者・プロスペル・メリメは、政府から歴史的文化財視察総監に任ぜられ、馬に乗って南フランスをくまなく見て歩いた。 そして1835年に「南フランスの旅のノート」を発表し、大きな反響を集めた。
これに呼応したのが、カルカソンヌの景観保存に生涯を捧げるようになった郷土史家・クロ・メイルヴィエーユである。
そして、中世建築の修復家として名高いヴィオレ・ル・デュックが政府から派遣され、1844年からラ・シテの城壁と伯城を修復保存する工事が始まった。
日本では江戸時代の天保の改革が行われた頃であるから、フランスがこの分野でいかに進んでいたかが分かる。