モンテーニュ
(Michel Eyquem de Montaigne 1533~1592)
モンテーニュの『随想録』(エセー)は、時はまさに宗教戦争の最中で、旧教徒と新教徒が、たがいに信条を錦の御旗にして血みどろの内戦をくりひろげていた時代に生まれたものである。
自分自身を客観的に考察した上で、実生活の体験と読書による知識を重ねていく人間性省察は、近代的自己意識を確立させ、フランスのモラリスト文学の発祥と言われている。
デカルトやパスカルをはじめとして、近代的の思想に大きな影響を与えた。
モンテーニュの家は、ボルドーで海産物・ワイン・歴青などを扱う豪商で、祖父の代からの法服貴族である。モンテーニュはボルドー大学で法律、論理学を学んだ後、21歳から37歳までペリゴールとボルドーの裁判官をつとめる。一族には行政・司法・宗教関係の要職につく者が多かった。父の死後、裁判官職を友人に譲り、家屋の管理と読書三昧の隠棲生活を送ろうとするが、周囲が放っておかなかった。ボルドー市長に選ばれる。
時は、内乱状態にある宗教戦争の時代で、非常に難しい政治情勢であった。モンテーニュは旧教徒の立場に立ちつつ新教徒も擁護し、両陣営の融和に尽力する。戦火に見舞われ、内乱の流血に巻き込まれて物情騒然となることもあったが、モンテーニュは、内には治安を確立し、外には中立の立場をとって上手にその危機を逃れるのである。
モンテーニュが相続した遺産総額は、現代の貨幣価値に換算して、ざっと65億円にのぼるそうである。法服貴族の資産内容が想像出来て興味深い。
その領地経営をとりしきったのは賢夫人だった奥方である。
ボルドー市の営業実務は番頭たちにまかせたのだろうが、それにしても当時のボルドーのワイン・ビジネスの中での大手だったに違いない。
(堀田善衛の『ミシェル城館の人』には、この時代とモンテーニュが鮮やかに描かれている)。
モンテーニュの館と領地は、サン・テミリオンからベルジュラックヘ行く途中にあって、今でも、その館は、その名もモンテーニュという小さな村のはずれに建っている。(「シャトー・モンテーニュ」というワインも売られている)この館は19世紀に火事にあったが、丸い塔だけが残った。モンテーニュは、この塔の中で、あの有名な『エセー』を書き綴ったのである。
モンテーニュは、随想録の中で「酪酎について」という題で、飲酒について書き残しているが、のん兵衛にとって、うれしいことも書いている。
「フランス風に、健康を害するのを恐れて、二度の食事に、控え目に飲むというのでは、神の恵みをあまりに制限しすぎることになる。飲酒にはもっと多くの時間と勤勉を費やさねばならない。昔の人たちはこの仕事に夜を徹し、ときには、日中にも及んだ。だからわれわれも不断に酒を飲む習慣をもっと広範で強固なものにしなければならない」(原二郎訳)
なお、メドックは、モンテーニュの生きた時代には、まだ開発されていない。