フランスワインの歴史

ロワール古城歴史散歩

 

昔から「フランスの庭」と呼ばれるロワール中流域は、世界遺産にも登録され、 由緒ある古城の美しさと自然が見事に調和して、そのひなびた風景の優美さに心安らぐ地域。華麗な城館は300とも500とも言われる程無数に存在する。

パリの人々も、いつか都会の騒がしさを逃れて、このロワールのほとりで静かに暮したいと夢みてきた土地。ジョルジュ・シムノンが生み出した<メグレ警部>も、 引退してロワールの田園生活を楽しんでいる。

パリに王朝が移るまでは、フランス・ルネッサンスの華が咲いた文化地帯でもあった。 歴代の国王や貴族たちが、あるときは政治的な理由から、またあるときはロワール河の景観に魅せらて、この地に宮廷を築いた。
盛んに築城を始めたのは、百年戦争以降。 当初は装飾の少ない素朴な軍事要素の多い城館が建てられたが、16世紀に入ってイタリアのルネサンス様式の影響を受け、装飾の多 いエレガントで優美な城が次々に出現するようになった。

ここでは、「ロワール古城歴史散歩」と題して、その城館を尋ねることにした。

 

アンジェ城・・・英国王となるアンジュー家発祥の地
アンジェ城

ケルト人の時代からの古い歴史を持つアンジェの町は、ソーミュールから約50キロ、ロワール川の支流メーヌ川にある。
9世紀末に、この地に城を築いたのが、ロワール河流域の歴史に大きな影響を及ぼすことになったアンジュー家で、その先祖は、「赤毛のフルク」と呼ばれていた。

アンジュー家(プランタジネット家)の当主は、通常皆、このアンジェを本拠にした。英国プランタジネット朝初代王ヘンリー2世(在位1154~89)もそうで、大陸にいるときはアンジェの城に滞在することが最も多かった。
彼が大陸で支配していた広大な領土のほぼ真中にあって、四方に睨みをきかすことが出来た事と、メーヌ川とロワール川の水運により海と繋がっているという利点もあった。

フィリップ2世(在位1180~1223)の手によってフランス王家の所有に帰した後、孫のルイ9世がアンジェの城を全面的に改築した。1228年から38年に掛けてのことで、それが現在のアンジェ城である。
19世紀になって、大通りを通すために、出丸は完全に取り壊されてしまった。それでも城門にはハネ橋を設けてあった跡や かつて城を取り巻いていた堀だった所は今では公園になっていて、夏ならば模様花壇が美しい。

城壁の高さは40メートルもあり、大きな円塔がいくつも突出している。円塔の数は全部で17。どの円塔も赤黒い石と白い石を使って豪快な縞模様を作っている。 城を左に見ながら坂道を登って行くと、右側は旧市街で、左側には現在の城への入口がある。この城はメーヌ河畔の高い台地の突端を切り取るという形で造られている。

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領主と城

メロヴィング朝時代には、封建領主は、領土の所有者ではなく、単に王から委任された者に過ぎなかった。その領土の警護という職務への代償として、ただ当時の慣習が認めていたいくつかの権利を与えられていたに過ぎなかったのである。
その後、バイキングとサラセン人の侵入(8-9世紀)が始まった。それは、カール大帝が建設した中央集権国家の完全な衰退と時を同じくしているのだが、 中央の力が無くなり、地方ごとに自衛し住民の暮らしを確保しなければならなくなった。自衛できる範囲は、最初は限られたものであるから、地方ごとの極端な細分化が起こった。そして、その土地の領主は次第に世襲化されていったのである。

実際、当時の封建領主の役目は、今日のわれわれにとっての軍隊と裁判と警察に相当するものである。国は報酬をよこさないから、領土からの上がりで、自らを養うようになり、領民から受けるその糧の量は領主の采配で決められいった。この領主采配如何が領土の繁栄と拡大に繋がるのである。

中世の城は、一つの小世界であった。 城壁の中には、領主や封臣(交代で年間40日の兵役の義務)だけでなく、周辺に住む農民も非難出来た。
(経済が発展してくると、商人や職人も同様に) 貴族の称号だが、、たとえば「公」は〔中世ラテン語で〕デュックス、軍事指揮者を意味する。
「侯」はマルシオで辺境、つまり国境を守る者。
「伯」は、コメスで仲間、王の友人の意味で、王は伯に対し、統治する領土を割り当てて委任していた。
公にしろ侯にしろ伯にしろ、領主と呼ばれていたが、これは経験豊かな年寄りのことで、管理者を指した。従って、貴族とは、その由来は、土地を有する人のことであり、軍事的な事柄は、その身分の義務として課せられていたものだったのである。

領主の城は、まず、第一に防衛施設である。領主や封臣のみならず、周辺に住むすべて民のものであり、緊急の場合の避難場所であったから、アンジェの城のように、今では庭に変わっているが、巨大な掘で囲まれていた。
自然の防衛が十分でない所は(丘や、切り立った岩の上にそびえる城を除いて、大抵の城は防衛が不十分なのだが)、このような広大な掘によって城塞を隔離していたのである。また、城壁の角は、攻められやすい死角になるので、アンジェの城のような円筒状の塔で補強されているのである。
シノン城・・・英国王となるアンジュー家

ロワール川の支流ビエンヌ川に面する小高い丘に、難攻不落を誇ったシノンの城がある。細長く突き出た岩盤の上にあって、三方が高い断崖で囲まれている。 このように地形そのものが要塞の要素を持つから、ローマ時代から城塞が築かれ、時の権力者の居城として堅牢なものに造り替えられてきたが、同時に、血なまぐさい戦の舞台にもなって来た。

現在見られる城は、後に英国王になるアンジュー家のへンリー2世(在位1154~89)が築き直したもの。 ヘンリー2世は、フランス王ルイ7世と離婚したアキテーヌ公女エレオノールを娶り、フランスに広大な支配地を獲得していき、プランタジネット朝の権勢を誇るが、晩年、不和になった妃や息子達に背かれ、フランス王フィリップ2世の軍に追い詰められ、この城で、寂しい死を迎えた。

跡を継いだリチャード(獅子心王)もまた、10年後に、フランスとの戦いの矢傷がもとで瀕死の重体になり、シノンに運ばれてきたが、城まで担ぎ上げられる前に、城下の町で息を引き取った。

次のジョン(失地王)も、フランス王フィリップ2世にこの城を攻められた。イギリス兵はよく防戦したが、兵糧攻めに切り替えられ、8ヵ月の包囲の未に陥落。フランスに於ける領地の大半を失うことになる。

天然の要塞として、理想的な地形の高台にあるシノン城は、石畳の道が、何度も折れ曲がりながら、斜面にしがみつくようにして街と結ばれているが、この道は、「ジャンヌ・ダルク通り」と呼ばれている。

城の上からは、ビエンヌ川とシノンの町が眼下に眺められ、スレートぶきの民家の屋根が、黒々とした波のように見える。石畳を敷き詰めた町の狭い通りの両側には、古風な木造の家々が並び、花で飾られたその出窓には、幾世代にも渡る人の温もりが感じられる。

高い断崖の上にそびえる城が、その家並みの間からときどき顔をのぞかせている。 橋を渡って対岸に行くと、壮大なシノン城の全容が眺めるられる。

「シノン」と言えば、その北隣の”ブルグィユ”と共に、ロワールを代表する赤の名酒である。
このロワールの中流域でフランス・ルネッサンスの華を咲かせて宮廷をおいた王侯貴族もこのワインを楽しんだに違いないが、あの「ガルガンチュワ」を書いたラブレーの生まれた地でもあることに思いをめぐらすと、軽快な酸味と果実味を持つこのワインも一味違ってくる。

 

プランタジネット王朝の本拠地。 Chinon
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シノン城とジャンヌ・ダルク

百年戦争末期の1429年、各地で連戦連敗のフランス軍は、最後の拠点オルレアンにたてこもり、抗戦を続けていたが、落城は目前であった。 この時,突如として出現したのが、聖少女ジャンヌ・ダルクだった。

シノン城に逼塞していた皇太子シャルルに会い、「自分こそは、フランスを救う神の使者である」と言った。 それを信じた皇太子は、彼女をオルレアン救助に向わせる。神のお告げにより蹶起したと言うこの少女の出現により、フランス人の愛国心がめざめ、この時から、敗色濃厚な戦況はフランスに有利に展開する。

ジャンヌは、1430年5月コンピューニュに出撃した時、不運にもイギリス側に捕らえられ、魔女として火刑と言う悲劇的最期を迎えることになるが、23年後の1453年、フランス軍はイギリス勢力をフランス本土から追い出し、逆転勝利に終わらせる。

百年戦争を勝利したフランス王バロワ家は、その後、強固な王権を確立、ロワール河流域に、次々と宮殿式の城館を築き始め、遠征したイタリアの文化を吸収し、絢爛豪華な宮廷、<フランス・ルネッサンス>を迎えることになのである。

ジャンヌ・ダルクが初めて王太子シヤルルに会った建物は三方の壁が崩れ去り、大きな暖炉の跡だけが一方の壁に残っていて、ジャンヌ・ダルクを記念する浮き彫りが掲げられている。
シャンボール城・・・フランス・ルネッサンス
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1494年、シヤルル8世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに出兵した。「イタリア戦争」と歴史で言われるものの始まりである。 次のルイ12世は祖母の血統からミラノ公国の継承権を主張し、北イタリアに進軍、ミラノ公国を征服したのだが、1513年のノヴァラの戦いで大敗し、撤退せざるをえなくなる。

次いで、1515年、20歳の若さで即位したフランソワ1世は、その年にイタリア遠征を敢行、マリニャーノの戦いで歴史的な大勝利を収めた。 しかし、オーストリアとスペインに君臨していたハプスブルク家の皇帝カール5世に、前を立ち塞がれる。この2人はその後も何回か戦いを交えるのだが、結局、最後の勝利はカール5世の手に帰した。
フランスは、この「イタリア戦争」と言われる戦いで、領土獲得の目的は全く果たすことができず、多大な国費と人命を失っただけだった。

しかし、文化の面においては、イタリアは「ルネッサンス」と言う文化の華の真っ盛りの時期であったから、シヤルル8世、ルイ12世、フランソワ1世と続いてイタリアに親征した王たちは皆、その先進文化の導入に努めた。建築、工芸、彫刻、絵画、造園などの専門家を多数フランスヘ連れ帰った

フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴインチ(人生最後の3年間をフランスで過ごす)を招聘し、その子アンリ2世は、1532年フィレンツェのメディチ家から、カトリーヌを妃に迎え、「フランス・ルネッサンス」の華を咲かせるのである。

百年戦争後、力を無くした領主たちが宮廷貴族として王のそばに常駐するようになった宮廷は、その貴族、文化人を数千人抱え、ロワール河沿いの城館を同じ所に2週間以上は滞在したためしがないと言われるほどの移動を繰り返した。

まさに「ロワール宮廷文化」と言う<フランス・ルネサンス文化>の大輪を咲かせたのである。それは、イタリア同様、芸術を愛し、繊細な詩心を持ちながら、限りなき残酷さ、快楽に淫しながら、深い信心、現代のモラルでは律することの出来ない歴史絵巻を展開した。

 

Francois 1

 

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シヤンボール城の建設

 

 

Moliere

 

初め、この地には12世紀ころに建てられたブロワ伯の狩猟用の城があった。それをフランソワ1世が取り壊し、1519年から現在の見るような大規模な城を、国家財政にお構いなく造り始め、その子アンリ2世に引き継がれ、1539年に完成している。

ロワール河の流れを城の近くまで引きこんで堀にするという雄大な構想を持っていたようだが、建築家たちの意見に従い、結局は支流のコソン川を利用することにしている。イタリアのルネッサンス文化がまだ十分消化されていない時期の建築で、装飾過剰で統一感がないようだが、それが反って、伽話の城のような親しみを感じさせる。

シャンボール城が完成して、ほぼ150年後にヴェルサイユ宮殿が完成し、宮廷は移動しなくなるが、そのルイ14世もヴェルサイユ宮殿が出来るまでは、9回も宮廷をシャンボール城に移し、盛大な饗宴を繰り広げている。

当時の新聞に、 「1670年10月9日に、両陛下は、王弟殿下並びに多くの廷臣、貴婦人を従えてシャンボールの城に到着、いつものように狩猟に興じられた。13日の夜、「国王付きの劇団」によリ喜劇が上演された」と言った記事が見える。

この「国王付きの劇団」と言うのはモリエール一座のことで、この日初演の喜劇とは「町人貴族」のことだった。
前年9月にも、モリエールはシャンボールの大広間で新作の「ブールソーニヤック氏」を披露している。 医者や貴族の虚飾を容赦なくはぎ取る痛烈な訊刺劇で、多くの観衆を沸かせたが、同時に敵も作った。 俳優であリ劇作家でもあったモリエールがなおも才筆をふるい得たのはルイ14世というパトロンの庇護があったためだと言われている。

「国家、それは私である」と豪語した太陽王ルイ14世が、このジャンボールをはじめロワール河畔の城々で、あるいはパリ近郊のベルサイユ新宮殿で、貴族らに取り囲まれ華やかな宮廷生活を謳歌している頃、フランス全土では重税に農民や職人たちが喘ぎ、各地で反乱があいついていた。後のフランス大革命の萌芽は、すでにこの頃から始まっていた。
シュノンソー城・・・カトリーヌ・ド・メディシス
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シュノンソー城は、ロワール川の支流シエール川にかかる橋のような形になっており、水に映る姿がいかにも優美で、「橋の上の城」と呼ばれ、門から庭園まで、爽やかなプラタナスの緑のトンネルの並木道がある。庭内に入って右に見える円塔は、マルク塔と呼ばれ、13世紀に築かれたマルク家の城塞のドンジョンである。

帯剣貴族の当時の例に漏れず、マルク家が財政難に陥り、この城と領地を新興の財産家で国王の財務官を務めるトーマ・ボイエに売り渡した。
彼は1513年にマルク塔だけを残して中世以来の城塞を取り壊し、ルネッサンス様式の城館を建て始めた。裕福な銀行家の娘だった妻のカトリーヌ・ブリソネの指図で殆どが作られた。

二人の死後、会計検査で、ボイエの徴収した税金の中から国王に納めるべきものが多額に残っていることが判明し、フランソワ1世がこの城を没収した。
城館の後ろに接して橋の上に3階建ての建物を付け加えたのが、カトリーヌ・ド・メディシスで、シュノンソー城が現在のような姿になったのである。

シュノンソーの城館としての新機能

シュノンソーは、城館として二つの新株軸を生み出した。その一つは、「真直ぐな階段」。その二は、「部屋の前の廊下」である。 現代の常識からは当然すぎる程当然なことだが、当時はそうではなかった。

それまで城の階段は「上りが時計回りになる螺旋階段」と決まっていた。その理由は敵の急襲を防ぐためである。真直ぐの階段だと一気に駆け上がられてしまう上に、上で防御する方は足を狙われて分が悪い。「上りが時計回りになる螺旋階段」だと、上の方は、螺旋の軸になっている柱を盾にして右手で自由に刀槍を振るえるが、下から攻める方は、螺旋の軸が邪魔になって右手を上手く使えないし、左半身が敵の攻撃に曝される。
城が戦闘の場ではなくなり、快適な居住性が求められるようになってからも、城には螺旋階段を設けるという伝統は守られていた。 しかし、「町人の娘」が初めてそれを打破して、「真直ぐな階段」を設けたのがシュノンソーである。以来、城館の階段は真直ぐで広いものが主流になって行く。

シュノンソーの階段はまだ実用本位のものであったが、もう少し時代が下ると、この種の階段は館内の豪華さを盛り上げるための装飾的な役割を兼ね備え、上り下りする人の豪華で優雅な姿を見せる1つの舞台ともなって行くのである。
また、中世の城には廊下がなく、部屋から部屋へと次々に通り抜けて、いちばん奥の部屋に達する方式だった。奇襲を防ぐにはこういう構造の方がいいからだ。そして、どの城でも、入って直ぐの部屋に衛兵が詰めていた。 この伝統はかなり後まで持ち越されたが、裏方としては非常に使い難い。 城主や奥方の部屋は必ずいちばん奥にあるので、来客をそこまで通すとなると途中の部屋がみな丸見えになってしまう。ボロ隠し、プライバシーの保持ができない。 例えば宴会の準備、料理の運び込み、後片付け、掃除などの時も不便極まりない。 そこで「町人の娘」だった奥方は、このシユノンソーに初めて廊下を設け、どの部屋にも別個に出入りできるようにした。

階段の場合と違い、この伝統はずっと後世まで改められなかった。この城より150年ほど後に出来たヴエルサイユ宮殿などもそうだが、相変わらず部屋から部屋へと通り抜けて行く方式になっている。警備上の配慮と王の威厳を敢えて見せるためだったようだ。

 

シュノンソー城

 

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カトリーヌ・ド・メディシス

フランソワ1世(在位1494~1547)は、スペインのカール5世と激しく敵対していた。戦いの舞台はイタリアであったが、北方のフランドル地方の脅威もあり、 ローマ法王との関係強化の必要を感じ、時の法王クレメンテ7世がフィレンツェを支配したメディチ家出身であったところから、次男アンリの妃としてメディチ家から、カトリーヌ・ド・メディシスを迎えた。カトリーヌは、「偉大なる者」と称されたロレンツォの曽孫に当る。

カール5世のハプスブルク家は、ヨーロッパ最大の金融業者フッガー家に支えられていたから、もう一つの金融業者メディチ家との財政的関係強化の狙いもあったと思われる。

長男が若くして死んだので、フランソワ1世死後、弟のアンリが王位を継いだ。カトリーヌは王妃の座に着くことになったのである。 カトリーヌは、夫のアンリ2世が早死にするので、その後の王位を継ぐ、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后として、権力を振るうのであるが、彼女の後半生は、フランス革命に次ぐ大内乱「宗教戦争」を迎え、多難な舵とりをすることになるのである。

カトリーヌは、イタリアから、料理人、香水造り、占星術師まで連れて来た。メディチ家の料理人によって、フランス料理の基礎がつくられたとも言われている。氷菓子(シャーベット)を作る技術や食品を冷蔵する技術、ワインを冷やして飲むことなどがもたらされた。テーブル・マナーや乾杯の儀礼もカトリーヌがもたらしたものと言われている。

ロワールの城館やその庭を舞台として、大掛かりな祝宴、機会仕掛けの装置や花火を使ったスペクタルをもまたフランス宮廷にもたらした。 城館の堀の中から人魚の姿をした乙女たちが出現したかと思えば、庭園の茂みの中からセミヌードのニンフの姿をした乙女たちが出現するというような当時としては斬新な演出の饗宴を披露した。

なお、カトリーヌはいつも美しい女性の一群を召し抱えていて、これと思う男たちに接近させ、政敵を手なずけたり、寝物語に情報を収集させたりするのに使ったことでも知られている。

 

カトリーヌ・ド・メディシス

 

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クロード・デュパン夫人

シュノンソー城は、その後、数人の人の手から手へと受け継がれた末、1733年にブルボン公が売りに出し、資産家で総徴税請負人をしていたクロード・デュパンが手に入れた。

デュパン夫人は美術、文芸、演劇、自然科学の愛好者で、名高いサロンを開き、この城にも当代一流の文化人たちを招いた。 思想家フォントネル、モンテスキュー、ヴオルテール、博物学者ビュツフォンなどもよくこの城に滞在した。

ジャン・ジャック・ルソーはデュパン夫人の秘書になり、彼女の息子の家庭教師をもつとめ、かの有名な教育論「エミール」を書いた。 そして「告白録」の中でこう述べている。
「この美しい場所でみな楽しく時を過ごした。ご馳走をたくさん食べ、私は修道士のように太ってしまった。私たちは音楽を演奏し、芝居の朗読をした。私は庭園の中のシェール河畔の道から題名を取って、<シルヴィーの道>という韻文のオペラを作曲した」と。
ルソーがシュノンソー城で満ち足りた日々を送ったありさまが偲ばれる。

大革命の時、おおかたの城は民衆に襲われ、家具調度などが持ち去られてしまったが、この城は、デュパン夫人がまわりの農民たちに敬愛されていたので略奪にあわなかった。館内に王朝時代からの家具や絵画が完全に残っているのはそのためである。

 

クロード・デュパン夫人
アゼ・ル・リドー・・・財務官の妻の館

アゼ・ル・リドーの城は、ロワール河の支流のアンドル川の中洲に建っている。バルザックは、「風流滑稽譚」に書いている。

「美しいトゥレーヌに於いても、この城などは最も美しい、雅な、愛くるしい、凝ったお城の一つで、離れ屋や、薄紗の窟や、兵隊は皆さうだが、風のまにまに廻る風見のついた可愛らしい兵隊人形などに飾られて、公侯の想ひ女といった優姿を、今も昔に変らずアンドルの河波に洗はせている」と。

この華麗な城館は、16世紀の前期、トゥール市長で、フランソワ1世の財務官だったジル・ベルトロによって築かれた。
彼の妻フイリップ・レスバイが、工事の実際は指揮したから、全体に女性的な優雅さが漂っている。様式はゴシックからルネッサンスヘの過渡期を示している。 本来は防禦用の装備である四隅の円塔や銃眼なども単なる装飾となっている。堀に映る姿が特に美しく「ロワールの真珠」と呼ばれている。

華麗な城館がほぼ完成に近づいた頃、ベルトロー同様国王の財務官をしていた従兄弟サンプランセが公金横領の疑いで逮捕され、有罪の判決を受けて縛り首にされたのだった。
その頃の徴税方法が徴税人の裁量によるところ多分にあったから、私腹を肥やすことがまかり通っていた。国王の信頼という後ろ盾を失えば、直ちに失脚。私財蓄えの罪で断罪されるのも常だった。

ベルトローは、従兄弟サンプランセ同様、いやそれ以上の私腹を肥やしていたから、身の危険を感じ、せっかく出来上がりかけていた城館も何もかも捨てて、当時はまだフランス領ではなかったメッスに亡命した。
サンブランセやベルトローから借金をしていた貴族たちは、少なくなかったから、借金が棒引きになる彼の逃亡を喜んだに違いない。

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その後、アゼ・ル・リドーの城館は国王フランソワ1世に没収され、国王の警護隊長が後を任されて工事を完成させた。 館内の暖炉の上に、フランソワ1世の紋章である「火とかげ」が大きく浮き彫りになっているのはそのためである。

(バルザックは、ベルトローでは無くは、従兄弟サンプランセの方が築城者だと「アゼェ城由来記」では記している)

 

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官売制と法服貴族

中世末期から、富を蓄積した大商人(ごく一部のブルジョワでしか過ぎないが)は、国王の重税から仲間である都市市民を擁護する有力者として、王政に抵抗もするが、同時に、土地を買って地主になり、王族に多額の金を貸付けたり、税の徴収を請負ったりして、官職に着き、王側の立場で働く者が出てくる。その中から、実務に秀でた者が貴族に叙せられることが起きてくる。

国王の側でも、国土が広がり経済活動が盛んになるに従い、多くの役人を必要とした。役人の数が増加するにつれて財源にも困り、官職を売ることを始める。(貴族は、名誉こそ重んじるが、実務は、からきしだめな者が殆どだから) 1483年の財務官職の「売官制」を皮切りに、やがて行政、司法、軍務など殆ど総ての官職にこれを拡大して行った。 (徴税請負は王に税を前払いをして、それに徴収手数料を上積み(3割からひどいときは同額)して、王権を後ろ盾に、徴収するやり方だから、常に私腹を肥やす温床になった)

売官制は王政にとっては、手早く国庫収入を増大させるものだったが、同時に、新興ブルジョワジーを国家の運営に参加させ、従来の貴族層の力を削ぐ効果をも持っていて、王権の強化にも繋がった。

1604年からは、官職は購入者にとって転売や相続することができる資産ともなつた。官職の保有は直接の報酬の外に、謝礼や賄賂を伴い、更に、社会的な「箔と信用」をもたらした。そのため、官職購入は権威と利得を同時に手にしうる有利な投資であり、金のある商工業ブルジョワは競って官職を買った。 その数は、1515年には約5,000人だつたが、ルイ14世の親政の始まる1661年には、約50,000人弱に増加し、その後も増え続けた。

「高等法院評定官(裁判官)」のような幾つかの上級官職は、その保有者に貴族の資格が与えられたから、幾代もかかって官職を次々に買い換えて、この職に辿り着き、貴族に「成り上がる」ことも出来た。
官職保有によって貴族に叙せられた「成り上がり貴族」を、中世以来の伝統的な戦士貴族(「帯剣貴族」)に対して、「法服貴族」と言う。

フランスの歴史の中で、中世から近世に掛けて、その時の王を、特に財政的に支え、権力の中枢で活躍したのは、総てこの法服貴族だったと言っても言い過ぎではない。

・最盛期のブルゴーニューに於けるニコライ・ロラン
・ルイ13世のリシュリュー
・ルイ14制のコルベール
・思想界におけるモンテーニュとモンテスキュー
など、すべてこの法服貴族である。
アンボワーズ城・・・新教徒虐殺
Amboise

アンボワーズ城の起源は遠くローマ時代に遡る。 ここに川中島があるのを利用して昔からロワール川に橋が掛かっていた。橋を押さえる拠点として、河畔に突き出ているこの高台に城塞が築かれたのである。
高い城壁の上に現存している建物が造られたのは、15世紀末から16世紀前半で、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の時代である。 後期ゴシック様式からイタリアからもたらされたルネッサンス様式への過渡期のものである。

シャルル8世はこの城で生まれ育ったので非常な愛着を持ち、ロワールでも最大級の城館に仕立て上げる端緒を開いた。1494年のイタリア遠征によって、イタリアから、建築家、彫刻家、装飾家、石工、造園師などを連れ帰り、彼らの技術が城の改築にふんだんに使われた。

2代後のフランソワ1世のとき、最も華やかな時代を迎える。多くの芸術家、文人、学者がこの城のサロンに群がった。人文主義者を擁護し、王立教授団を設立したのも彼である。

 

これが現在の「コレージュ・ド・フランス」の起源である。イタリアから、レオナルド・ダ・ビンチを招聘したのもこの時期。城の東南にあるクロ・リユセの館を与えられ、3年後(1519年)に亡くなるまで滞在した。フランソワ1世はダ・ヴインチと語り合うのを最大の楽しみにしていたという。

現在この館は博物館になっていて、建物、家具調度、生活用具なども15世紀に建てられた当時の姿に復元され、ダ・ヴインチが考案した各種の機械の模型なども展示されている。
フランソワ1世の宮廷が、置かれた頃は、2つの中庭を囲む壮大な城館だったが、その大部分は後世に取り壊され、ロワール川に面している部分と聖ユベール礼拝堂(堂内にレオナルド・ダ・ヴインチの墓がある)だけが現在残っている。

城のテラスから眺める眼下のロワールは、歴史の喜悲劇を歳月のかなたに流して、静かに流れている。

 

Amboise

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新教徒虐殺

1560年、フランス中で宗教戦争の嵐が吹き荒れ、多数の新教徒が弾圧され処刑された頃。 新教徒の一党が秘かに、この地域に集まり、旧教徒の首領ギーズ公(後にブロワ城で暗殺されることになるギーズ公の父)を殺害しようと企てた。 だが、仲間から密告者が出て、逆に1500人あまりが次々に捕らえられ、アンボワーズ城に連行された。
ギーズ公は自分に対する殺害計画を、国王に対する反逆であるかのように言いくるめ、病身の若い国王フランソワ2世に迫って全員の処刑を命令させた。
ギーズ公は王妃メアリー・スチュアートの伯父でもあり、この時は絶大な権力を振るっていたので、新旧両教徒の和解を図っていた母后カトリーヌ・ド・メディシスでさえどうする事も出来なかった。

首謀者は四つ裂き、身分のある者は斬首。その他の大勢の者は城館のテラスや城壁の狭間から吊り下げられた。手足を縛って城の庭に転がし、重い石を積んだ馬車で轢殺すという無残な殺し方も行われた。なにせ捕らえた者が大勢だから吊り下げる所も、轢殺す余地も無くなり、城壁の上から突き落としたり、手足を縛ってロワール川で溺死させたりした。城の内外は死骸であふれ、死人の括約筋が緩んで排泄された糞と血の臭いとが充満。その死臭で息も詰まるほどであった。

17歳の国王と18歳の王妃はギーズ公に強要され、母后や廷臣達と共にこの凄惨な大量処刑を初めから終わりまで見させられた。

 

ブロワ城・・・建築史の博物館
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ロワール河沿いの丘の一端が高台になっている地形を利用し築かれたのがブロワ城である。 遠い昔から砦があったのを、13世紀にブロワ伯が堅固な城塞に仕立て上げた。 近世に入って、王権が確立されてこのあたりでは戦が起こることが予想されなくなり、 次第に城館に改築された。

従って、中世城塞の部分とその後のいろいろな時代に増改築された城館の部分とが、複雑に混じり合っている。

16世前半に造られたフランソワ1世棟には、華やかな彫刻で飾られた壮大な螺旋階段が外側に張り出している。初期ルネッサンス様式を代表する建物である。昇り降りの機能だけでなく、観覧バルコニーの役を果たしていたから、中庭で催しものが行われる時には、 宮廷の貴婦人たちがここにずらりと並ん見物した。

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ブロワ城とジャンヌ・ダルク神話

1429年4月26日、ジャンヌ・ダルクはプロワ城の第一郭で勢揃いしてから初陣に出た。その時、王太子のもとへシャンパーニュを追われ、亡命して来ていたランスの大司教が、ジャンヌの旗印に祝福を与えた。以来この旗印の進む所、次々と奇跡のような勝利が訪れる。

それまで、軍の行く所には、必ず後ろから売春婦の大部隊がつき従うのが通常の光景だった。しかし、ジャンヌは全軍にお触れを出し、この悪習を止めさせた。
男の総大将が、こんな命令を出しても、当時戦いの主力は傭兵が担っていたから、傭兵たちはおそらく聞き入れなかったであろう。が、そこは神様のお告げを受けた純真無垢な少女のお触れと言うことで、皆が襟を正す気持ちになったのだろう、連敗を重ねていたフランス軍が、連勝に転じた。 ジャンヌ・ダルク神話の語る一つのエピソードである。

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宗教戦争とカトリーヌ・ド・メディシス

時代は下って1588年。フランス国内は旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノー)の2派に分かれ、有力貴族の勢力争いとも絡まって、血なまぐさい戦乱や虐殺事件が繰り返されていた。
国王アンリ3世と母后カトリーヌ・ド・メディシスの政策は、新旧両教徒の和解を図って、そのバランスの上に王権を拡充しようということであった。

今や大きな経済力を持って王権の支えになっている商工市民階級の間に新教徒が多かった。それをむやみに弾圧することは、国王として得策ではないと考え、新教徒に信仰の自由を認め、国内に平和と繁栄を取り戻そうというのがアンリ3世と母后カトリーヌ・メディシスの基本方針であった。

しかし、ギーズ公アンリを首領とする旧教徒強硬派は、こんな国王の政策にまっこうから反対していた。ギーズ公は当時のフランスで勢威並ぶ者のいない大貴族であり、遠くカロリング王家の血を引いていると称して、王位さえ窺っていたのだ。
そうして、伝統的に旧教徒の勢力が強かったパリで、武力に訴えてアンリ3世を屈服させ、このブロワで三部会を召集させたのである。
パリでは既に「アンリ3世を廃位せよ」という声が盛んであった。「国中で、あまねく正しい信仰(旧教)を護持できないようでは、国王の資格がない」と言うわけである。

三部会も大部分はギーズ公の派閥であったから、ここで一挙にアンリ3世を廃位し、取敢えずは、旧教徒強硬派の王族であるブルボン枢機卿を国王に推戴する決議をさせようと、ギーズ公は画策していた。

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宗教戦争の終結とブルボン王朝の始まり

パリから逃亡してブロワ移り住んだにアンリ3世は、城内の会議場でこれから三部会を開こうという朝、王の使いをギーズ公を呼びに行かせた。「相談があるから来てくれ」と言うものだった。周囲の者が危ぶんだのに、ギーズ公はせせら笑って王の部屋に入って行った。 彼は「向こう傷の殿」とアダ名されたほどの剛の者で、「あの腰抜け国王に何ができるか」とタカをくくっていたのだった。
が、前後左右からバラバラと出て来たのは剣を手にした刺客である。剣を使えば無双といわれていたギーズ公も、この時は丸腰だったから、結局、刺し殺された。

絶体絶命の窮地に立たされ、普段は弱気なアンリ3世も、非常手段を取らざるをえなかったのだった。キリスト教の習慣に反して、ギーズ公の死骸は焼かれ、その骨と灰はロワール川に投げ捨てられた。

その翌年、アンリ3世もまた刺客の凶刃に倒れ、ナヴァール王アンリを後継者として息を引きとる。 ブルボン朝初代王アンリ4世(在位1589~1610)の世が始まり、宗教戦争を収めた。時代は、徐々に絶対王政へと変わっていくのである。
サシェの館・・・バルザックとラブレー
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バルザック

アセ・ル・リドーからアンドル川に沿って少し遡ったところに、小さな城館がある。バルザック(1799~1850)が 『谷間の百合』 『ゴリオ爺さん』 などを執筆した館「サッシェ」である。 現在、バルザック博物館になっている。 三階の天井の低い寝室は彼の生前のままに保存されている。
バルザックの母親の親友ド・マルゴンヌ氏の館であったから、彼はしばしばここに滞在した。

バルザックの代表作 『谷間の百合』 には、
「一つの谷底に、サッシェの館の浪漫的な威容がその全貌を現わしましたが、これこそ調和に満ちたものうげな住居であり、軽薄な人々にとってはあまりに重々しく見えようとも、心病める詩人にとって何ものにも代えがたい住居なのです。それゆえ、その後、私もその館の静寂、梢の裸になった大木、そしてそのひそまり返った谷間にただよう何か神秘めかしいものなどが、すっかり好きになってしまったものでした。」と。

この作品が出版された1836年頃は、田舎から多く人々が、パリに集中して来ていた。 都市化が進み、田園が失われていった時期であるが、眠っていた田園の美しさを、バルザックは呼び覚ましたのである。

様々な人間が様々な心理や行動を展開する「人間喜劇」を描いたトゥール生まれの文豪バルザックがフランス文化の一面を示すと言えば、もう一つの文化を示したロワール生まれの作家として、ラブレー(1483~1553)を忘れるわけにはいかない。

 

Balzac

 

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ラブレー

ロワールは、風光明媚な景勝地というだけでなく、フランスのガストロノミーの英雄、ガルガンチュワとパンタグリュエルという巨人王たちの生まれ故郷でもある。
物語の舞台の多くは、シノン近郊の村々である。

ギリシアやローマの古典に精通し、医者でもあったシノン生まれのラブレーが、中世の民間伝承に材をとった「パンタグリュエル物語」を出版したのは1532年。 時はまさに宗教戦争の真っ只中、アンボワーズをはじめとして、ロワールの城館や宮廷で血なまぐさい 争いの嵐が吹き荒れていた時代であった。

「火焙りになるのはまっぴらご免」と、時の権力に屈することや、自らの思想に殉じる潔さをも全く持たない精神の産物、ガルガンチュワとパンタグリュエルの巨人父子こそは、あらゆる硬直した狭隘な精神を笑い飛ばし、常にうまい食べ物とうまい酒を愛するゴーロワ精神の体現者なのである。

巨人王子パンタグリュエルが偽善や悪を相手に縦横無尽に活躍するこの物語は、禁書に指定されるが、16世紀最大のベストセラーとなった。

日本では、フランスと言うと洗練されてスマートな文化の国というイメージが一般的だが、猥雑なまでの哄笑と飽くことのない愉しみの追求という「ボン・ヴィヴァン=よく生きる人」の伝統は、フランス文化の確かな一面なのだ。
「よく生きる人」とは、何よりもまず「よく食べよく飲む人」であって、ガストロノミーとは、「よく食べよく飲む」技術以外のなにものでもない。

 

ユッセの城・・・眠れる森の美女
Usse

アンドル川の岸沿いにしばらく走ると、左手に森を背景にしたユッセの城が現われる。三段の城壁の上に、右方のルネサンス様式の大きな館と左方のゴシック様式の小さな館がそれぞれに幾つかの塔を聳やかせている。

その二つの館は奥の平面的な館でつなぎ合わされている。この城の全景を眺めるには城門の前のアンドル川に架かる古い石橋を渡った対岸からが最も美しい。

古くから城塞のあったこの地は、15世紀の中頃に百年戦争で功のあったビュエイユ家の所有であった。
しかしシャルル7世の愛妾"美の奥方〃の娘を娶ったアントワーヌ・ド・ビュエイユは1485年にこの城をブルターニュ公の一族であるエスピネ家に売リ渡した。
現在みられるルネサンス様式の居館、庭内の小さな教会などはこのエスピネ家によって造られたもの。

シャルル・ベローが、欧州の民話を集めて一冊の本を作った。
その一つが「眠れる森の美女」である。

この物語の舞台にふさわしいイメージとして、このユッセの城を選んで書いたと言われている。
城の中には物語りにふさわしい様々な展示がなされているが、深い森を背景にして建つ城は、おとぎ話しの絵本そのもの。メルヘンの世界がひろがっている。