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ケルト人の時代からの古い歴史を持つアンジェの町は、ソーミュールから約50キロ、ロワール川の支流メーヌ川にある。 
	
	
 	
  
	
プランタジネット王朝の本拠地。
 
 	
 
	
 
 	
 
	
 
	
 
初め、この地には12世紀ころに建てられたブロワ伯の狩猟用の城があった。それをフランソワ1世が取り壊し、1519年から現在の見るような大規模な城を、国家財政にお構いなく造り始め、その子アンリ2世に引き継がれ、1539年に完成している。 ロワール河の流れを城の近くまで引きこんで堀にするという雄大な構想を持っていたようだが、建築家たちの意見に従い、結局は支流のコソン川を利用することにしている。イタリアのルネッサンス文化がまだ十分消化されていない時期の建築で、装飾過剰で統一感がないようだが、それが反って、伽話の城のような親しみを感じさせる。 シャンボール城が完成して、ほぼ150年後にヴェルサイユ宮殿が完成し、宮廷は移動しなくなるが、そのルイ14世もヴェルサイユ宮殿が出来るまでは、9回も宮廷をシャンボール城に移し、盛大な饗宴を繰り広げている。 当時の新聞に、 「1670年10月9日に、両陛下は、王弟殿下並びに多くの廷臣、貴婦人を従えてシャンボールの城に到着、いつものように狩猟に興じられた。13日の夜、「国王付きの劇団」によリ喜劇が上演された」と言った記事が見える。 この「国王付きの劇団」と言うのはモリエール一座のことで、この日初演の喜劇とは「町人貴族」のことだった。
 
 
	
 
 	
	
 
	
 
 
	
 
 
 アゼ・ル・リドーの城は、ロワール河の支流のアンドル川の中洲に建っている。バルザックは、「風流滑稽譚」に書いている。
 
「美しいトゥレーヌに於いても、この城などは最も美しい、雅な、愛くるしい、凝ったお城の一つで、離れ屋や、薄紗の窟や、兵隊は皆さうだが、風のまにまに廻る風見のついた可愛らしい兵隊人形などに飾られて、公侯の想ひ女といった優姿を、今も昔に変らずアンドルの河波に洗はせている」と。
  
この華麗な城館は、16世紀の前期、トゥール市長で、フランソワ1世の財務官だったジル・ベルトロによって築かれた。
 
アゼ・ル・リドーの城は、ロワール河の支流のアンドル川の中洲に建っている。バルザックは、「風流滑稽譚」に書いている。
 
「美しいトゥレーヌに於いても、この城などは最も美しい、雅な、愛くるしい、凝ったお城の一つで、離れ屋や、薄紗の窟や、兵隊は皆さうだが、風のまにまに廻る風見のついた可愛らしい兵隊人形などに飾られて、公侯の想ひ女といった優姿を、今も昔に変らずアンドルの河波に洗はせている」と。
  
この華麗な城館は、16世紀の前期、トゥール市長で、フランソワ1世の財務官だったジル・ベルトロによって築かれた。 その後、アゼ・ル・リドーの城館は国王フランソワ1世に没収され、国王の警護隊長が後を任されて工事を完成させた。
館内の暖炉の上に、フランソワ1世の紋章である「火とかげ」が大きく浮き彫りになっているのはそのためである。
(バルザックは、ベルトローでは無くは、従兄弟サンプランセの方が築城者だと「アゼェ城由来記」では記している)
		
	
その後、アゼ・ル・リドーの城館は国王フランソワ1世に没収され、国王の警護隊長が後を任されて工事を完成させた。
館内の暖炉の上に、フランソワ1世の紋章である「火とかげ」が大きく浮き彫りになっているのはそのためである。
(バルザックは、ベルトローでは無くは、従兄弟サンプランセの方が築城者だと「アゼェ城由来記」では記している)
 
		
	
	
	
  アンボワーズ城の起源は遠くローマ時代に遡る。 ここに川中島があるのを利用して昔からロワール川に橋が掛かっていた。橋を押さえる拠点として、河畔に突き出ているこの高台に城塞が築かれたのである。
 
 	
アンボワーズ城の起源は遠くローマ時代に遡る。 ここに川中島があるのを利用して昔からロワール川に橋が掛かっていた。橋を押さえる拠点として、河畔に突き出ているこの高台に城塞が築かれたのである。これが現在の「コレージュ・ド・フランス」の起源である。イタリアから、レオナルド・ダ・ビンチを招聘したのもこの時期。城の東南にあるクロ・リユセの館を与えられ、3年後(1519年)に亡くなるまで滞在した。フランソワ1世はダ・ヴインチと語り合うのを最大の楽しみにしていたという。 現在この館は博物館になっていて、建物、家具調度、生活用具なども15世紀に建てられた当時の姿に復元され、ダ・ヴインチが考案した各種の機械の模型なども展示されている。
 
 
	
 
	
 
 
 
 
 	
 ロワール河沿いの丘の一端が高台になっている地形を利用し築かれたのがブロワ城である。
遠い昔から砦があったのを、13世紀にブロワ伯が堅固な城塞に仕立て上げた。 近世に入って、王権が確立されてこのあたりでは戦が起こることが予想されなくなり、 次第に城館に改築された。
従って、中世城塞の部分とその後のいろいろな時代に増改築された城館の部分とが、複雑に混じり合っている。
16世前半に造られたフランソワ1世棟には、華やかな彫刻で飾られた壮大な螺旋階段が外側に張り出している。初期ルネッサンス様式を代表する建物である。昇り降りの機能だけでなく、観覧バルコニーの役を果たしていたから、中庭で催しものが行われる時には、 宮廷の貴婦人たちがここにずらりと並ん見物した。
ロワール河沿いの丘の一端が高台になっている地形を利用し築かれたのがブロワ城である。
遠い昔から砦があったのを、13世紀にブロワ伯が堅固な城塞に仕立て上げた。 近世に入って、王権が確立されてこのあたりでは戦が起こることが予想されなくなり、 次第に城館に改築された。
従って、中世城塞の部分とその後のいろいろな時代に増改築された城館の部分とが、複雑に混じり合っている。
16世前半に造られたフランソワ1世棟には、華やかな彫刻で飾られた壮大な螺旋階段が外側に張り出している。初期ルネッサンス様式を代表する建物である。昇り降りの機能だけでなく、観覧バルコニーの役を果たしていたから、中庭で催しものが行われる時には、 宮廷の貴婦人たちがここにずらりと並ん見物した。
 
	
	
	
 
	
	
 
	
	
 
	
 
 	
 
	
	
	
 
 アンドル川の岸沿いにしばらく走ると、左手に森を背景にしたユッセの城が現われる。三段の城壁の上に、右方のルネサンス様式の大きな館と左方のゴシック様式の小さな館がそれぞれに幾つかの塔を聳やかせている。
その二つの館は奥の平面的な館でつなぎ合わされている。この城の全景を眺めるには城門の前のアンドル川に架かる古い石橋を渡った対岸からが最も美しい。
古くから城塞のあったこの地は、15世紀の中頃に百年戦争で功のあったビュエイユ家の所有であった。
 
アンドル川の岸沿いにしばらく走ると、左手に森を背景にしたユッセの城が現われる。三段の城壁の上に、右方のルネサンス様式の大きな館と左方のゴシック様式の小さな館がそれぞれに幾つかの塔を聳やかせている。
その二つの館は奥の平面的な館でつなぎ合わされている。この城の全景を眺めるには城門の前のアンドル川に架かる古い石橋を渡った対岸からが最も美しい。
古くから城塞のあったこの地は、15世紀の中頃に百年戦争で功のあったビュエイユ家の所有であった。
