 
  ローヌ河は、古代ローマ文化と葡萄栽培を北方の国々に伝播させた大動脈であった。
ワインを求める北方の市場へ輸送費を節約しようと、古代のぶどう栽培者たちはワインの運ばれる主要な輸送経路に沿って、出来る限り栽培地を北へと伸ばしていったが、その北限は、ローヌ河沿いのコート・ロティやエルミタージュとタルン川の航行可能な地点にあるガイヤックのぶどう畑で、時期は紀元前後であった。 しかし、「ローマの平和(紀元前1世紀末~200年間)」確立後、農業技術が進歩すると、寒さや湿気に強い新しい品種が作り出され、ぶどう栽培の北限は数百キロ北へ押し上げられ、その結果として、現在ぶどう畑が見られる緯度にまで達することができたのである。
 
 
  
	
	
 
	
 
 ローマ帝国崩壊後、教会や修道院が、葡萄栽培に掛けた精力は想像以上のものがあり、その精力の源は、単に宗教人としての立場からだけではない。
それは、いいワインが高位の人々の生活には欠かせない装飾品であり、社会的尊厳のはっきりした表現のひとつであったから。
(このワインが単に、アルコール飲料と言うだけでなく「文化的な威光を持ち、社会的な役割を担うきわめて重要な産物」であることの理解は、ワイン文化を持たない日本人には、一般的に難しい)
ローマ帝国崩壊後、教会や修道院が、葡萄栽培に掛けた精力は想像以上のものがあり、その精力の源は、単に宗教人としての立場からだけではない。
それは、いいワインが高位の人々の生活には欠かせない装飾品であり、社会的尊厳のはっきりした表現のひとつであったから。
(このワインが単に、アルコール飲料と言うだけでなく「文化的な威光を持ち、社会的な役割を担うきわめて重要な産物」であることの理解は、ワイン文化を持たない日本人には、一般的に難しい)
 
	
 
 
 
	
 
 
 
	
	
	
 
このシトー派の修道会を、その後育てあげたのが聖ベルナールである。
 
 
 中世時代から今日まで、西欧各地からの巡礼者の辿る道に、スペイン北西端のサンチャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼路があり、世界遺産にも登録されている。ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。
伝説によると、ヤコプはスペインのガリシア地方に伝道に赴いたことがあった。その地異で教徒の迫害にあったためいったんパレスティナヘ帰還した。ところがヘロデに捕らえられ、斧で頭を切り落とされた。弟子たちが遺体を小舟へ運ぶと、天使が舞い降りて舟を導き、はるばるスペインの西端のサンチャアゴまで運ばれた。そこに弟子たちは遺骨を埋葬した。
 
中世時代から今日まで、西欧各地からの巡礼者の辿る道に、スペイン北西端のサンチャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼路があり、世界遺産にも登録されている。ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。
伝説によると、ヤコプはスペインのガリシア地方に伝道に赴いたことがあった。その地異で教徒の迫害にあったためいったんパレスティナヘ帰還した。ところがヘロデに捕らえられ、斧で頭を切り落とされた。弟子たちが遺体を小舟へ運ぶと、天使が舞い降りて舟を導き、はるばるスペインの西端のサンチャアゴまで運ばれた。そこに弟子たちは遺骨を埋葬した。 
	
 
 
	
 ひとつは、オルレアンを出発点としてトウール、ボルドーを経てパイヨンヌの少し東のオスタバ経由でスペインに入るトウールの道。ボルドー・ワインの中心地のひとつサン・テミリオンは、この巡礼路の宿場町として繁栄した街のひとつ。ポムロールのワインのシャトー名に巡礼にちなんだものが多いのは、そうした由来からでもある。トゥールには、葡萄栽培者守護聖人「聖マルタン」 のマントの聖遺物があることで有名。
	
	
ひとつは、オルレアンを出発点としてトウール、ボルドーを経てパイヨンヌの少し東のオスタバ経由でスペインに入るトウールの道。ボルドー・ワインの中心地のひとつサン・テミリオンは、この巡礼路の宿場町として繁栄した街のひとつ。ポムロールのワインのシャトー名に巡礼にちなんだものが多いのは、そうした由来からでもある。トゥールには、葡萄栽培者守護聖人「聖マルタン」 のマントの聖遺物があることで有名。 
	
 
 
	
 ブルゴーニュ公国とは、フランスの現ブルゴーニュ地方を本領とした公領で、1361年カペー系ブルゴーニュ公家が嫡子なく断絶すると、ヴァロワ朝第2代のフランス国王ジャン2世がその相続権を獲得したが、これを王領には編入せず、末子フィリップのためにブルゴーニュ公本領を親王領とした。
その後このフィリップ(豪勇公)は、フランドル伯領の相続人であったマルグリット・ド・マルと結婚。こうした結婚・外交政策や武力により、ブルゴーニュ公国はやがて1384年にはフランドル、フランシユ・コンテ、アルトワ、ヌヴエール、ルテルを併せて大ブルゴーニュ公領を構成するに至る。
このようなブルゴーニュ公国の領土拡張政策は、フィリップ豪勇公に続くジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公の4代百年余りに渡って追求され続け、その最大版図は、南の本領地ブルゴーニュ、ヌヴエールから北の北海沿岸フリースランドに達し、アルザス、ピカルディなども併せている。
これらは、ヨーロッパでも当時最も豊かな地方で、特にフランドルの経済的・文化的活力は目覚ましく、フランス・イギリスが共にこの地を虎視眈々と狙っていた。
 
ブルゴーニュ公国とは、フランスの現ブルゴーニュ地方を本領とした公領で、1361年カペー系ブルゴーニュ公家が嫡子なく断絶すると、ヴァロワ朝第2代のフランス国王ジャン2世がその相続権を獲得したが、これを王領には編入せず、末子フィリップのためにブルゴーニュ公本領を親王領とした。
その後このフィリップ(豪勇公)は、フランドル伯領の相続人であったマルグリット・ド・マルと結婚。こうした結婚・外交政策や武力により、ブルゴーニュ公国はやがて1384年にはフランドル、フランシユ・コンテ、アルトワ、ヌヴエール、ルテルを併せて大ブルゴーニュ公領を構成するに至る。
このようなブルゴーニュ公国の領土拡張政策は、フィリップ豪勇公に続くジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公の4代百年余りに渡って追求され続け、その最大版図は、南の本領地ブルゴーニュ、ヌヴエールから北の北海沿岸フリースランドに達し、アルザス、ピカルディなども併せている。
これらは、ヨーロッパでも当時最も豊かな地方で、特にフランドルの経済的・文化的活力は目覚ましく、フランス・イギリスが共にこの地を虎視眈々と狙っていた。
 
	
 
			
 
 
 
	
 宮廷が移動してくると、その町の旅籠屋はおおいに潤った。(貴族の一部は近在の町に自分の館があればそこに逗留した)
ブルゴーニュ公の宮廷ははっきり位階の固定された構造を持っていた。フィリップ善良公の時代で言えば、
第1の階層のトップに属するのは、公妃と公太子、公および公妃の親族である。
宮廷が移動してくると、その町の旅籠屋はおおいに潤った。(貴族の一部は近在の町に自分の館があればそこに逗留した)
ブルゴーニュ公の宮廷ははっきり位階の固定された構造を持っていた。フィリップ善良公の時代で言えば、
第1の階層のトップに属するのは、公妃と公太子、公および公妃の親族である。 
	
 「慈善施設病院」と言われるこのオスピスは、フィリップ善良公統治下のブルゴーニュ王国の財務長官 ニコラ・ロランによって、1443年創設された。
フランダースの建築家ジャック・ヴィスクレールが建てたものだが、度重なる政治的動乱にめぐり合ったにも拘らず、往時の芸術的姿をとどめている。しかも、その本来の目的も変わることなく保たれ、病人と貧しい人の世話にこの病院の尼僧達は身を捧げ続けてきた。 1971年、モダンな新病院が作られ、現在は博物館になっている。
ロランは厳しい課税と私腹を肥やしたとして、かんばしからざる世評を受けていて、これを建てることによって酷税の贋罪をしたとも言われている。彼はこのオスピスの永続的基金を生み出すため、自分の私有葡萄園を寄進し、同じことを人々に勧めた。長い歴史の中で、これに習って寄進が続き、今日のオスピスの葡萄園が形成された。
従って、葡萄畑は、コート・ド・ボーヌ地区の各村々に散在し、24の赤と8つの白の葡萄畑があり、その総面積は約125エーカ。畑の名前も寄進者にちなんだ名前がそれぞれに付けられている。 これらの畑から生み出されるワインが、オスピス・ド・ボーヌ銘柄で、あの有名な11月の第3日曜日に開催される「オークション」に掛けられ、その収益によって、現在オスピスの運営が賄われている。オークションの入札価格は、品質は間違いの無い極上ものだが、慈善への奉仕の心も込められるので、市場の流通とは無関係な高額の価格が設定されてしまうと言われている。
「慈善施設病院」と言われるこのオスピスは、フィリップ善良公統治下のブルゴーニュ王国の財務長官 ニコラ・ロランによって、1443年創設された。
フランダースの建築家ジャック・ヴィスクレールが建てたものだが、度重なる政治的動乱にめぐり合ったにも拘らず、往時の芸術的姿をとどめている。しかも、その本来の目的も変わることなく保たれ、病人と貧しい人の世話にこの病院の尼僧達は身を捧げ続けてきた。 1971年、モダンな新病院が作られ、現在は博物館になっている。
ロランは厳しい課税と私腹を肥やしたとして、かんばしからざる世評を受けていて、これを建てることによって酷税の贋罪をしたとも言われている。彼はこのオスピスの永続的基金を生み出すため、自分の私有葡萄園を寄進し、同じことを人々に勧めた。長い歴史の中で、これに習って寄進が続き、今日のオスピスの葡萄園が形成された。
従って、葡萄畑は、コート・ド・ボーヌ地区の各村々に散在し、24の赤と8つの白の葡萄畑があり、その総面積は約125エーカ。畑の名前も寄進者にちなんだ名前がそれぞれに付けられている。 これらの畑から生み出されるワインが、オスピス・ド・ボーヌ銘柄で、あの有名な11月の第3日曜日に開催される「オークション」に掛けられ、その収益によって、現在オスピスの運営が賄われている。オークションの入札価格は、品質は間違いの無い極上ものだが、慈善への奉仕の心も込められるので、市場の流通とは無関係な高額の価格が設定されてしまうと言われている。
 
 
	
	
 
 
 
  
 
	
 1850年代末にアメリカ原産の葡萄の苗とともにヨーロッパに渡った害虫(学名:フィロキセラ・パスタリクス)。
1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出はじめ、後はまたたく間に各地に伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊される。
そして1870年にはオーストリアヘ、1883年にはイタリアヘ、さらに1895年以降には北国ドイツにまで拡がり、葡萄畑に大きな被害を与え、所によっては壊滅寸前にまで追い込まれた。
 
葡萄栽培とワイン産業は、混乱し危機的状況を挺し、国は救済方法を発見した者に、莫大な報償金を約束した。
	
1850年代末にアメリカ原産の葡萄の苗とともにヨーロッパに渡った害虫(学名:フィロキセラ・パスタリクス)。
1863年、先ずローヌ河畔の葡萄畑に被害が出はじめ、後はまたたく間に各地に伝播して、フランスは約20年間に100万ヘクタールの葡萄畑が破壊される。
そして1870年にはオーストリアヘ、1883年にはイタリアヘ、さらに1895年以降には北国ドイツにまで拡がり、葡萄畑に大きな被害を与え、所によっては壊滅寸前にまで追い込まれた。
 
葡萄栽培とワイン産業は、混乱し危機的状況を挺し、国は救済方法を発見した者に、莫大な報償金を約束した。 
シャブリにおげるブドウ栽培の創始者もシトー派修道院であるが、シャブリのブドウ栽培地にシャルドネ種が移植されたのは、フィロキセラ危機以後の再建の時期からのようである。 シャブリ地区は100%近い白ワインの産地であるが、フィロキセラ危機以前の昔は、 シャブリの赤ワインも決して珍しいものではなかったようである。
