オットー1世が、カール大帝と同じように、国内統治に教会を利用したが、その異なるところは、世俗の大貴族(地方に定着して世襲によって力を貯えた)に対する対抗勢力として、意図的かつ積極的に教会を利用したことにある。
いち早く中央集権化を成し遂げたローマ・カトリック教会の組織の要は、司教座や修道院である。都市の第一人者である「司教」は、信仰生活における長と言うより、都市住民の世俗的な日々の生活を様々な形で左右しうる行政の長としての役割を担っていた。修道院と共に、この司教は、土地の寄進や各種特権を与えられ手厚く保護されていたから、財政的にも豊かになり、その地方の大権力者になって行った。
聖職者は世俗諸侯と違って結婚しない。従って世襲はない。オットー1世以降、歴代の王は、この聖職者の任命権を握ることによって、教会組織を国の統治機構として利用して行ったのである。
この世俗権力者による聖職者の叙任は、聖職売買や聖職者の堕落という事態を招くことが少なくなかった。
ローマ教皇の権力が伸張する中で、この司教を任命する権利(叙任権)をめぐる争いが頻発するようになって行った。「叙任権闘争」と呼ばれる皇帝と教皇との争いである。
同時に、諸侯の間に皇帝派(ギペッリーニ)と教皇派(グェルフィ)に分かれての対立抗争も生まれた。
この「叙任権闘争」は1122年「ヴォルムスの協約」で妥協の解決を見るが、 神聖ローマ帝国の帝権は、自立的領域支配圏を持つ世俗諸侯と司教座に君臨する聖界諸侯の支持を常に必要とする中央集権とは程遠いものであった。
勿論、フリードリッヒ2世のような例外時期もあるが、持続する強固な政権を持ち得なかったのが神聖ローマ帝国の特徴で、実質的な権力を持つ聖俗の諸侯が並び立ち、19世紀まで統一国家を築き得なかったドイツの要因でもある。