「ウィーン会議」の結果、ドイツにはドイツ連邦が誕生する。ドイツ連邦は、神聖ローマ帝国に代わる、オーストリア・プロイセン・バイエルン・バーデンなどドイツの約40の諸国家で構成する連邦組織(主権的諸侯と自由都市)だが、君主同盟に近いもので、統一国家と言えるようなものではない。
メッテルニッヒ(1773~1859)の関心は、ヨーロッパに平和と秩序を回復するための体制をいかに実現するかにあった。中央ヨーロッパにドイツ民族の強大な統一国家が出現すれば、この勢力均衡が破壊されるとする点で、フランスの会議代表
タレーラン外相と立場を同じくしていた。オーストリアを議長国とする主権国家の集合体・ドイツ連邦は、そうした意味でメッテルニヒの外交的手腕の成果であった。
メッテルニヒは、ライン河沿いの町コプレンツの生まれで、フランス語を能くし、駐仏大使も務め、時の敗戦国フランスのよき理解者でもあった。「わが故郷はラインラント、わが祖国はヨーロッパ」という彼の言葉が示すように、彼の目は、オーストリアと言う自国の枠を超えてヨーロッパに向けられいた。彼は、「ドイツ人」なるものは、プロイセン人、バイエルン人、ザクセン人等の総称で、国家としての実体を欠く「ドイツ統一」など架空の思想に過ぎぬとしてこれを退けた。彼の考えはフランス革命前の支配関係を復活させようとする復古的理念と捉えてられた。
ウィーン会議では実際に、フランスだけでなく、スペインやナポリでもブルボン家の王朝が復活したのだった。
しかしメッテルニヒはこの理念を教条的に信奉していたのではない。そもそも彼はナポレオンの没落を望まなかったのだし、革命前の神聖ローマ帝国の復活など一顧だにしていない。ヨーロッパ諸大国間に勢力のバランスを保つことで現行秩序を守り、ひいてはヨーロッパに平和を維持するというのが彼の政治のエッセンスで、ウィーン会議後、彼の指導下で、戦争で明け暮れていたヨーロッパが、ともかくも半世紀近く戦争無しに過ごすことができたのは、それなりに評価されていいことであろう。
メッテルニヒは、ワイン造りについては、アルント神父と言う熟練者に任せたが、販売については、鋭い商業的センスを発揮した。
「ヨハニスベルグ゙で詰めるワインは酒蔵主任のサインしたラベルを付けずに売ってはならない」と言う命令を出した。ヨハニスベルグ゙は既に一級の品質の世評を受けていたが、その中でも極上のものを区別し、2種類のラベルを付け、品質の違いを具体的に示して出荷した。当時としては画期的なことである。これがやがてドイツ全体に及ぶ統制へと整理されていくのである。
ヨーロッパ各地で巨額な金を動かし、当時国際金融でのし上がっていたロスチャイルド家を優れた外交官として熟知していたから、その人脈を利用して極上ワインの販路を広げたのは言うまでもない。