そのフランク王国のドイツ地域への進出を補強する形で、ライン中流域からマイン川に沿って大規模な移民が行なわれ、「オスト・フランケン(東のフランク)」と言う部族国家がつくりださた。それが地名の起源である。フランク族のドイツ地域支配の拠点であった。
なお、民族の大移動の結果、ドイツの地に定住することになっていたゲルマン民族は、アレマンネン(西南ドイツ)、ザクセン(北ドイツ)、テューリンゲン(中部ドイツ)、バイエルン(東南ドイツ)、フリ-ゼン(北ドイツ沿海低地地方)などの諸部族である。
ライン以東のゲルマン諸部族のフランク王国への従属化は、すでにメロヴィング朝(486~751)に始まり、最後はカロリング朝のカール大帝(768~814)によって仕上げられるのだが、それはこの地域のキリスト教化と一体となった過程であったと言える。
フランケン地方への布教は、ワインの守護聖人・キリアン(680年)に始まり、後に「ドイツ人の使徒」と呼ばれることになるイングランド出身の宣教師ボニファーティウス(マインツを拠点にドイツ各地への布教に努め、754年殉教)によって推し進められるのだが、それは、フランク王国の支配圏拡大と一体の過程でもあった。
最後まで抵抗した北ドイツのザクセン族(キリスト教化を拒む異教徒)が、カール大帝の30余年にわたる「ザクセン戦争」(772~804)で武力平定されたことによって、ドイツ地域のキリスト教化もひとまず完了することになる。それはまた、ザクセン人の捕虜4,500人が処刑されるといった、はなはだ血なまぐさいキリスト教化で、「聖戦」と言う宗教戦争でもあった。
「ヴェルダン条約」の後も、王が死ぬ度に再配分をめぐって内乱が起こり、東西フランク王国に挟まれた「ロタールの国」の北部は、東フランクの領有となつた。
こうして生まれた配分が、地理的には現在のフランス・ドイツ・イタリア3国の原型である。