ザクゼンのフリードリヒ賢公とマルティン・ルター
1502年、ザクゼンのフリードリヒ賢公は、ヴィッテンベルグに人文主義の新しい大学を創設した。
この新しい大学は、創設6年後に赴任した若い聖書学教授・マルティン・ルターによって、全ヨーロッパにその名をとどろかせる。
1517年、ルターによって、教会の発行する免罪符の販売に抗議する「95か条の提題」が出された。宗教改革の発端である。
以前からの教皇や司教の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満がピークに達し、同時発生的に各地にこの改革運動が始まる。チューリッヒのツヴィングリ、ジュネーヴのカルヴィンなどである。
こう言う変革運動は、一旦動きだすと先へ先へと過激化して行く。宗教戦争と言う最も悲惨な戦争を17世紀半ばまで各地で繰り返しながら、プロテスタントと呼ばれる新教は全ヨーロッパに広がっていった。(この時代生まれ、カトリック側の対抗運動の旗手となったのが、騎士修道会のイエズス会)
ルター派は、ドイツでは北ドイツ一帯、更に北ヨーロッパ・スカンジナヴィア(デンマークとスウェーデン)に広がって行った。はるか北東のドイツ騎士団国家もルター派に改宗して「プロイセン公国」となった。
カルヴァン派は、フランスに入ってユグノー、スコットランドでは長老派、イングランドではピューリタンとなる。ドイツでは選帝侯国の一つのライン宮中伯領(プファルツ)が受け入れている。
ヨーロッパ的に見るとカトリックの牙城はイタリアとスペイン。フランスもユグノー戦争という動乱を経て、結局カトリックの国であり続ける。ドイツではバイエルンを中心とする南ドイツがカトリックに留まる。(ルター派のヴュルテンベルクを除く)
宗教改革という運動の中で、小国に分裂していたドイツの領邦君主の多くは、思うに任せない司教などの持つ伸張する俗権力を抑えるべくプロテスタントを受け入れ、教会監督権を掌握し、国家行政機構に組み入れた。
一方、カトリックにとどまる領邦君主も、混乱し弱体化する教皇権力の中で、領内の教会を厳しい統制下においてその支配権を強化して行った。
こうした領邦君主の自国の権力強化と領邦君主同士の利害対立抗争が宗教戦争のもう一つの要因で、信仰をめぐる神学的論争から出発しながら、聖・俗諸侯と皇帝の三つ巴の政治取引、政治抗争がドイツの宗教戦争の実態とも言える。その最たるものが「三十年戦争」である。