ラインの水運は、中世に入って飛躍的に高まった。12世紀末アルプスに、南ヨーロッパから北へ抜けるザンクトゴツトハルト(サンゴタール)峠が開通した。
これによりライン河は、イタリアとネーデルラント(現ベネルックス三国の地域)を結び、北海に通じる重要な交易ルートとなった。
また中世欧州の交易の中心であったフランスのシャンバーニュが、フランス国王の集権政策や百年戦争の結果、14世紀に入って没落したことも、ライン諸都市に活況をもたらした。
当時のヨーロッパでは、ライン流域ほど都市の密集した地域はなく、またラインほど美しい都市景観に恵まれたところはなかったと言う。
文字通り西ヨーロッパ経済の大動脈の役割をライン河は果たすのである。
ラインの水運がどのようなものであったか、ストラスブールに残る記録から眺めてみるとこうである。
当時、ライン河には全長20m、重量50トン程度の平底船が就航し、ストラスプールとフランクフルトの間を、下りは4日、上りは10日で結んでいた。
上りの時間が多いのは、もちろん岸伝いに船をロープで遡行させたからで、それには河筋の農民たちの労力(1隻当たり6~12人)が活用された。
ストラスプールの船頭を含む水運業者組合のメンバーが、15世紀には250人を数えたところからして、少なくとも300隻程度が常時ラインを上下していたものと思われる。
その積荷の中に、穀類や羊毛などと共にワイン樽が積み込まれていたことは言うまでもない。
14世紀初頭には、ストラスプールとバーゼルとの間(160km)には7ヶ所、マインツとの問(230km)には18ヶ所、さらにケルンとの間(460km)には60ヶ所もの税関が設けられていた。いかにライン沿岸の諸侯が通行税の徴収に血眼になっていたか、呆れるばかりだが、中世におけるライン川の水運がそれほどまでに繁栄していたことの証であろう。