プロイセン王国の宰相 、ドイツ帝国初代宰相(1871 - 1890)。
プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕としてドイツ統一を目指して鉄血政策を推進し、普墺戦争や普仏戦争を主導してこれに勝利。ドイツ統一の立役者となる。
ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させた君主主義の保守的な政治家。優れた外交官でもあり、現実に根ざしたその政治的手腕には卓越したものがあった。
ビスマルクは、1862年、プロイセン国王・ヴィルヘルム1世によって、首相兼外相に任命される。この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用した。期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。
この時にビスマルクは、「現在の大問題(=ドイツ統一)は、演説や多数決ではなく、鉄(=大砲)と血(=兵隊)によってこそ解決される」という演説を行った。以後「鉄血宰相」の異名をとる。
富国強兵の鉄血政策を大きく進める一方で、国際的に良好な関係を作る事にも腐心し、イタリアやロシアに接近し、オーストリアとも同盟を結び、この同盟関係を背景に1864年にデンマークと争い、勝利してシュレースヴィヒ(ホルシュタイン)を奪った。
対デンマーク戦争に勝利して国民の支持も取り付けたビスマルクは、更に手腕を振るうようになる。デンマークから奪った地域の領有権を巡ってオーストリアと対立すると、入念な準備の上で1866年6月オーストリアに宣戦布告。7週間で勝利する(普墺戦争)。
その一方でオーストリアとの講和では寛大なところを見せて、オーストリアの決定的な反感を買わないようにも気を配っている。
これによりウイーン会議で作られたドイツ連邦は解体され、プロイセン主導の北ドイツ諸邦で構成する北ドイツ連邦にまとめ上げ、自身、宰相となって、ドイツ統一への第一歩を踏み出す。
こうした状況にフランス皇帝ナポレオン3世は危機感を覚え、プロイセン王家に繋がるレオポルト公のスペイン王位継承問題について、ヴィルヘルム1世に永続性のある保証を要求してきた。ビスマルクはこれを逆用して世論を煽り、1870年7月、フランスをプロイセンに宣戦布告させることに成功(普仏戦争)。会戦1ヵ月半後に、フランスに勝利し、ナポレオン3世は捕虜となり、フランス第二帝政は崩壊する。
年明けにはパリは包囲され、いまだ砲撃が続く中の1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ここにドイツ帝国の成立が宣言された。
普仏戦争の目的は、北ドイツ連邦に属さないバイエルン王国をはじめとするドイツ南部諸邦に北との連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現する事にあった。ビスマルクの目論は達成される。
日本の明治政府の岩倉使節団はプロイセンを訪問しているが、ビスマルクと会見した伊藤博文・大久保利通らは大きな影響を受けた。大久保は西郷隆盛に宛てた手紙の中で、ビスマルクのその言説と人となりに大きな感銘を受けたことを綴っている。ビスマルクは、音楽にも通じ、名文家でもあった。