オーストラリアのワイン生産の先覚者は、ブラックスランドとマッカーサーである。また、オーストラリアのワインの父と呼ばれているのが、ジェームス・ハスビーである。
ウイリアムは、1944年、実用的な「栽培・醸造・貯蔵に関する書簡」を発行して、オーストラリア初期のワイン生産の発展に貢献した。
1831年、フランス及びスペインのワイン生産地を視察し、再度、各地の栽培と醸造を学び、英国政府の要請により、フランス、スペインの葡萄の木の収集を行い持ち帰り、それが各地に送られた。「栽培と醸造の実用書」や「フランス・スペインの葡萄園訪問記」をも出版し好評を得ている。
ハンター・ヴァレーでは、1852年には186haの葡萄園が形成され、年間272,000リットルのワインと4,500リットルのブランデーが生産されるようになり、ハスビーはハンター・ヴァレーの創設者と言われている。
「John Bull's Vineyard(英国民の葡萄畑)」として、ヨーロッパで知られる存在にもなって行き、英国向けのワイン産地として興隆して行った。
しかし、国内的には、一般庶民は、アルコールに対する渇望はあったとしても、アングロサクソン系が主体であり、ワインに対する理解は希薄であった。また、ワインをたしなむ上流階級からは、品質も相当向上してきているにも拘らず、「プライドが許さない」と言う事でしょうか、オーストラリア大陸で生産されるワインは大方見向きもされなかったと言う時期でもあった。
この時期は、南オーストラリア州のワイン産業の急速な発展に対抗してヴィクトリア州では補助金を出してブドウの植栽を拡大していた。これがフィロキセラを拡散する原因にもなり、やがてヴィクトリア州中部と北部にも伝染していった。
ヴィクトリア州北東部のラザーグレンでは1899年にフィロキセラが発見され、最初は大したことはないと思われたが、1906年には壊滅状態となってしまった。また、ゴールバーン・バレーには1895年に伝播した。
フィロキセラはこのようにヴィクトリア州のワイン産業に決定的なダメージを与えたのである。
更に、1901年にはオーストラリア連邦が設立され、今まで各州間の取引に課されていた関税が廃止されたので、南オーストラリア州の安いワインが流入し、ヴィクトリア州のワイン産業に一層の打撃を与えたのである。
当初一番有望とみられ、オーストラリアのワイン生産の50%を占めていたヴィクトリア州のワイン産業は、このようにして停滞し、1900年代の初期に主導的地位を南オーストラリアに譲ることとなった。
ワインの輸出についてもオーストラリアは、当時大きなハンディキャップを負っていた。ヨーロッパまでの輸送距離が長く、かつ赤道を通過しなければならない。輸送技術が未発達の段階でこれに耐えるワインを輸出する必要があり、輸出されるワインも通常のワインにアルコールが添加されて長持ちするポートやシェリーなどのいわゆる酒精強化ワイン(フォーティファイド・ワイン)が多くなった。
また、輸出されるもう一つのタイプは、フルボディと呼ばれるコクのある重い赤ワインで、色が深く、 タンニンが多い、長期間保存できるワインであった。
しかし、酒精強化ワインにしても重い赤ワインにしても遠いイギリスまで輸送され、消費される段階までになると品質が劣化している場合も少なくなく、オーストラリアのワインに対する評価は決して高いものではなかった。いったん落ちたオーストラリアワインに対する評価を取り戻すのは容易なことでなく、回復するまでにその後半世紀近くもかかってしまった。
大戦後しばらくしてから、オーストラリアは移民政策としてイタリア人、ギリシャ人、ユーゴスラビア人などを多く受け入れ始めた。これらの人々が南欧の食生活とワインを飲む習慣を持ち込んできたのである。1950年を過ぎた頃から、単調なイギリス的食事パターンが変化し、ワインの消費量も増加し、食事中にワインを飲む習慣がオーストラリアでも定着して行った。
食事中に飲むワインは辛口のワインが適しており、従来のような甘口のワインに代わって比較的辛口のテーブルワインの消費が多くなって行ったのである。
ワインの消費が伸びてくると、次の段階として、消費者の興味はより高級なもの、変化に富んだものへと移っていく。生産者側もこれに応じて、特色のある、より上質のワインを追求し、生産するようになって行った。ワインライターのヒュー・ジョンソンは、この点に関して、『ワイン物語』のなかで「良いワインは、市場がそれを求めてきたときに造られてきたものである。」と述べている。
オーストラリアは、建国以来イギリス文化をそのまま取り入れ、オーストラリア独自の文化を追求せず、もっぱら物質的に豊かになることのみに専念してきた。国が豊かになり多様な民族が入植してくる中で、オーストラリアのアイデンティティー、文化に対する関心が強まってきたのである。オーストラリアの原点を振り返り、アボリジニに対して土地の返還を決めたのもこの時期である。オーストラリアでは、ワインブームも文化を追求する一つの形態であった。
このような背景の中で、オーストラリアのワイン造りは、ヨ-ロッパの様なワイン醸造方法等を規制する法律を持たなかったため、新しい試みやブドウ品種間、産地間のブレンドによるワイン造りが行われると共に、より効率の高い葡萄栽培地として、大陸内部のマレー河流域の開発が大規模に行われた。 又、一方では、より冷涼なマーガレット・リバーやタスマニアなどでテロワールを生かした特色あるワイン造りも行われるようになっていった。